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現在のトアロード
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神戸事件について刻まれた碑文
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トアロードの最南端、ちょうど大丸神戸店の北向かいに、「TOR ROAD」の名が打たれたアーチがあります。シルバーの半円が、ガラスの柱によって支えられています。
そのアーチのある部分に、“ON 11TH JANUARY 1868〜”に始まる、英文が刻み込まれています。それは、アーチの側にある三宮神社に深い関わりのある、ある事件について書かれたものです。
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開港後まもない、1868年(慶応4年)1月11日、備前藩の隊列が西国街道を東に向かって行進中、三宮神社の前にさしかかったとき、沖に停泊していた外国軍艦の水兵数人が隊列を横切りました。それに怒った備前藩隊員がこれを制止しようとして、水兵を切りつけたことが国際事件となりました。この際、第3砲兵隊長の滝善三郎が命令を下したとされています。これを、「神戸事件」といいます。
明治11年頃の三宮神社付近
(英人新人記者・バーナード画)
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その結果、居留地の安全の確保を名目に、列強は一時神戸を占領します。そして、責任者の厳重な処罰すなわち滝の処刑を要求したのでした。
同月15日、明治新政府は、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)を代表として、交渉を開始しました。直接交渉に当たった伊藤俊輔(初代内閣総理大臣、後の伊藤博文)は、何とか滝の命を救おうとしましたが、外国側代表にそれを拒否されます。 |
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滝は同年2月9日に、薩摩藩の本部のあった兵庫の永福寺において、六カ国の立会人の面前で切腹します。
滝の切腹によって、決着をみた神戸事件。滝は、政治体制が確固としていない日本の新政府成立を、諸外国に知らしめるための、犠牲となったと言えるかもしれません。
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慶応4年2月9日夜、外国立会人を面前にして滝善三郎切腹の図(永福寺にて)
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アーチには、この神戸事件について書かれた碑文とは別に、以下のようにも刻まれています。 |
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この今に連なる歴史的悲劇と現代をつなぎ止めるかのように、アーチは大きく弧を描き両端を結んでいます。
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現在の三宮神社
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